鳴り響いたチャイムの音で白斗が目を覚ますと、ちょうど本日最後の授業が終わって教師が教室を出ていくところだった。 「でね、そういうわけなのよ!」 伸びをして中々消えない眠気を振り払っていると、遠くの席から葵の甲高い声が聞こえてきた。 「だから今はとにかく人手が必要なの。そっちにとっても悪い話じゃないと思うのよ」 「……なるほど。つまりそいつを見つければついに俺にも……クク」 その方向を向くと、何故か葵と山寺が顔を突き合わせていた。 山寺は普段の彼からはとても想像できないような真剣な顔つきで、何やら考え込むような仕草をしたかと思うと、そのまま高笑いを始める。 「……」 俗に言う五月病で精神が不安定なのだろうか、保健委員を呼んだ方がいいのだろうか、と白斗が何となく思っていると、 「お願い、頼れそうなのは見るからにヒマそうなアンタくらいしかいないのよ!」 『それ、地味に失礼だぞ……』 葵は両手を顔の横で合わせた「きゃるん☆」とでも効果音が入りそうなポーズをとり、ついでに何をどうやっているのか目をキラキラさせて山寺の顔を覗き込む。 「……」 白斗が今までにこのポーズ、通称「お願い体勢」を見た時は、例外無く葵が相手に無理難題を吹っ掛ける時であった。 また、基本的に異性には効果抜群であるようで、これをやられた大抵の男子は気が付くと葵に無償で昼食をおごっていたり、宿題を代わりに提出していたりする恐ろしい技でもあるらしい。 なお、白斗と光輝と紫苑、そして同性に効いた試しは無いようであったが。 「……」 今すぐ逃げた方がいいと山寺に忠告すべきなのかどうか迷っていると、 「フッ、そんな頼みとあっちゃあ、断るわけにはいかねぇなぁ!」 自身の髪をサッと掻き上げると、肩をコキコキと鳴らす。 「仕方ねぇ、俺も手伝ってやるかぁ!」 それから彼は、うひょーい、などと奇声を発しながら教室を飛び出していく。 「……」 山寺の姿が見えなくなると同時、葵は人差し指を天井に向けて叫んだ。 「さ、あたしたちも行くわよ。絶対に探し出してやるんだから!」 言うなりカバンを掴み、全力疾走で教室を飛び出していった。 そしてその背後を、やれやれと手を広げながらクレアが付いていく。 「……」 便利屋の仕事で、犬猫探しでもする気になったのだろうか。 「……仕事、か」 自分の言葉で、ふと一つだけ引っかかる事があった。 今日は幸いにして秋津さんからの雑用メールは来ていなかったが、そうではなく。 問題は、もう片方の仕事の方。 「他者の姿を模倣するドッペルゲンガーは、オリジナルを消そうとする。通称『人形』」 昨晩秋津さんが言っていた事を、何の気無しに繰り返す。 基本的に悠と光輝は二人一組で行動することが多かった。 それが秋津さんの思惑なのか、それともただの偶然なのかは分からなかったが、今回ばかりはそれで多少は安心できた気がした。 そんな事を考えつつ、教室の外に出て一歩を踏み出したところで携帯電話が鳴り響き、メールの受信を知らせてきた。 タイトルは。 『今日の極秘任務。ミッション名・翆(みどり)の幻影』 何があろうと、世界(にちじょう)はいつも通りに回り続ける。 「ふぃー……やっと買えたーっと」 お使いの品が入った紙袋を抱えた光輝は、その足で直接協会の建物へと向かっていた。 「悠はもう着いてるかな? 少なくとも俺が遅れてねーちゃんに小言言われんのは勘弁しないとな」 自分とは別行動を取った悠からはまだ連絡は無く、彼は動かす足を多少早めた。 そして。 「ん? なんだなんだ?」 建物の二階部分に通じる通路には見知らぬ十数人ほどの人間が集まっており、何やらモメているようであった。 「あ、すいませーん。ちょっと通してくださーい」 手を合わせるようにして彼らを押しのけると、そこには『都合により本日休業します』の張り紙と共に、一ミリの隙間も無く閉じられた入口の扉。 「あー……なるほどね」 つまりねーちゃんが急きょ休みにしたせいで、いつものバイト目当ての人たちが納得できずにモメている、かぁ……と心の中でつぶやいてから、 「あれ、マジか。参ったなー、ねーちゃんも出かけてんのかな?」 扉の上の方に設置されている番号式の認証パネルに適当に入力してみるものの、一向に開く気配はない。 「おかしいなー。……なんか開かないみたいなんで、皆さん明日お願いしますわー」 周囲の人間たちはなおもぶつぶつと不満をつぶやき続けていたが、 「こうしていても開かないって。時間の無駄ですよ。文句は明日言いましょ、ね?」 それに促された群衆は一人、また一人と消えていく。 そして最後の人間が諦めて去っていったところで、 「……。なんてね」 誰へともなくつぶやき、再度パネルに手を伸ばす。 「んー、と、確か……1、2、3、4と」 自分たちだけに教えられている四ケタの数字を入力すると同時、カチャと音がしてロックが解除された。 「ねーちゃんも不用心だよなぁ。こんなテキトーな暗証番号だなんて」 扉を引き開け、中に身体を滑り込ませてから照明のスイッチを入れる。 それから近くのテーブルの上に、買ってきた品物が入った紙袋を置いた。 「さって、悠が来るまで何しよう。それにしてもホント、ねーちゃんどこ行っちゃったんだろ」 まずはねーちゃんが隠しているはずの大量の菓子でも探してみよう、と一歩を踏み出したその時。 背後の扉がカチャリと開き、悠が室内に入ってきた。 「やーい、俺の勝ちー」 「別にあなたと早さ勝負をしていたつもりは無かったけれど」 そう言って、彼女はテーブルの上にお使いの品を置いた。 「……」 光輝は腕を組み、真剣な表情で彼女を見つめたりもしてみる。 「どうしたの」 「いや、悠が本物かなーと思ってさ。確かめるにはどうすればいいのかと」 「別に、偽物って事でもいいけど」 実に興味無さげにそう言ってから、奥のコーヒーメーカーへと向かう。 「またまたー。そんな事―」 光輝が遠巻きに眺めていると、悠は棚から取り出したペーパーフィルターを手慣れた様子でセットし、既に挽かれてあったコーヒー粉をそこへ注いだ。 「信じても信じなくても、どっちでもいい」 乱雑に散らかったテーブルの上に置かれたミネラルウォーターのボトルを手に取り、中身を全て水受け皿の中へと流し込み、スイッチを入れた。 「それで、もし私が偽物だとしたら、あなたはどうするの」 相変わらず抑揚の無い声で、そんな事を聞いてくる。 「んー、そうだなぁ……」 ポケットに手を突っ込みながら、考え込むような仕草をした。実際のところは特に考えておらず、仕草だけであったのだが。 その時、悠の携帯電話が静かな室内に着信音を鳴り響かせた。 「……」 彼女が無言で制服のポケットを探り始めるが、 「あ、出なくていいぜ。それ俺からのだから」 そう言い、後ろ手に隠していた自身の携帯電話の「切」ボタンを押した。 再び静まり返った室内。唯一音を立てるのは、ガラスの容器に焦げ茶色の液体が溜まっていく水音だけ。 「ほら、やっぱ本物じゃん。今俺がかけた電話が鳴ったって事は」 「偽物が、本物の私の死体から携帯電話を奪っていたとしたら」 言いつつ、容器に溜まったコーヒーを取り出した陶器製のカップへと注ぐ。 「さぁ。それならそれまでって事でいいや」 「……そう」 淡々と実に興味無さげにそう告げ、コーヒーが注がれたカップを盆の上に載せる。 「お、いい匂いじゃん。もーらいっと」 「あ……」 珍しく本気で驚いたような表情の彼女を尻目に、ひったくったコーヒーカップに口を付ける。 が。 「うげ、苦っ……」 口の中に含んだ茶色い汁を吐きださないように自制しながら、やっとの思いで飲み込んだ。 「それ、まだ砂糖もミルクも何も入れてないけど。美味しかったらもう一杯どうぞ」 そう言った悠が一瞬、本当に一瞬だけ面白そうに微笑んだ……ように光輝には見えた。 「……」 「どうしたの」 「悠さ、今……笑った?」 「……どうして」 「いや……悠が笑うのなんてめっちゃ久しぶりに見たからさぁ。……。……もしかして、マジでお前偽物?」 軽く後ろに飛び退(すさ)り、目の前の彼女に対してファイティングポーズを取ってみたりもする。 「……」 それを実にあきれたような目つきで見返した悠はため息をつき、新たに取り出したカップにコーヒーを注いだ。 それからそのカップを盆に載せ、スティックタイプの砂糖とミルクを一つずつ取り、光輝の脇を通り過ぎてソファまで運んでいく。 「……」 完全に無視された形となった光輝は、苦笑いを浮かべながら悠の背後に回った。 「……えーと、悠さん?」 「なに」 「もしかして今、怒ってます?」 「さあ」 彼女はコーヒーをテーブルの上に置いたまま、備え付けの雑誌をめくり始めていた。ただし、その雑誌にすら大して興味は無さげであるように光輝には思えた。 「ま、ここに入るための暗証番号が分かってた時点で疑ってなかったしな。……本当だってば、信じろよー」 「……」 コーヒーに口を付ける悠の表情にどこか面倒そうな色が浮いてきた辺りで、背後の扉が開いた。 「はい遅れてごめんねー。ちょっと散歩に行っててねー」 振り向いた光輝は、今しがた入ってきた人物に抗議の声を上げた。 「全く、ヒドいぜねーちゃん。俺たちにお使い押し付けて自分は散歩ってさぁ」 彼女は「あっはっはー、ごめんごめんー」と自身の頭を軽く叩いたところで、こちら二人の様子に気付いたようで、 「あれ? もしかしていい雰囲気だった? 私ってば邪魔だった? じゃあもう一回散歩に行ってくるから、どうぞ続けて続けてー」 ニヤついた表情で口元に手を当てた相手が出入り口の扉に手をかけると、悠がいつも以上に冷たい声でテーブルの上に置かれた二つの紙袋を示した。 「秋津、頼まれた品はそこに置いてある」 途端、相手は出入り口の前で見事なターンを決めると、スタスタとテーブルに駆け寄る。 「お、お待ちかねの……じゅるり」 そして彼女は二つの紙袋を心底大事そうに抱え込むと、 「じゃあ私は奥でこれ食べてくるから、後はヨロシクー」 言うなり彼女が入っていった奥の扉は閉められた。同時に鍵を閉める音も聞こえた。 そして三度訪れる静寂。 「……」 悠は飲み終えたコーヒーカップを受付脇のシンクに置くと、そのまま出入り口の扉へと向かう。 「あー、悠さ、どこ行くんだよ?」 「帰る」 ふとその時、着信音が室内に鳴り響き始めた。初期設定の単調なこの音は、悠の携帯電話から聞こえてきていた。 「……」 彼女がポケットから携帯電話を取り出し、発信者を確認する。ついでに光輝も画面を覗き込んだ。 「……?」 発信者は、夕月時雨。 二人して顔を見合わせ、悠が通話ボタンを押す。 と。 『づどお゛お゛お゛お゛お゛お』 スピーカーの故障かと思うくらい割れに割れた時雨の声が室内に響いた。 「……」 流石の悠もどこか顔をしかめ、電話を口元に当てる。 「時雨、どうかしたの」 『ざっぎばなじがげだのじぶじずるなよぼお゛お゛お゛』 相手は何やら激しく号泣しているようで、声が非常に聞き取りづらかった。 ……。 「さっき話しかけたのに無視するなよもう?」 一瞬間を置き、今しがたの時雨の言葉を光輝が翻訳した。 「あー……つまり、どういう事?」 再度二人で顔を見合わせる。 「時雨、いいから落ち着いて話して」 『ひっく……ひっく……だってよぉ……ぐすっ』 電話相手は相変わらずえぐえぐ泣いていたが、悠の言葉で一応の落ち着きを取り戻したようで、 『さっき駅前で津堂と別れた後、オレも帰ろうとしたんだ。するとちょうど帰ったはずのお前さんが駅ビルの中に入っていくじゃねーか』 「……。悠さん?」 「行ってない」 「ですよねー」 時雨が、もう一人の悠を見かけた。 この事が意味する答えは。 『追いかけて手を振っても、ファンクラブの話をしても、ついでにスカートめくってみてもガン無視されて……』 「……」 「あ、あはは……」 悠の表情が一瞬だけ不機嫌になった……気がした。 『オレ、オレってばお前さんに……ぎっ、ぎらわれだのがど……』 ずびびっ、と鼻をすする音が電話口の奥から聞こえてくる。 「……。嫌ってないから安心して」 それから相手に聞こえないような小さな声で「その代わり友達以外の意味で好きでもないけど」と付け足してから、 「時雨、現在位置を教えて」 『自分の部屋で、今までこっそり隠し撮りした津堂の写真見て泣いてんだよ……ひっく』 「そう。それならいい。……何か引っかかる事はあったけど」 そして。 「それと、ごめん。さっきは考え事をしててあなたの事にまで気が回っていなかった。詳しくは明日学校で話すから」 そう最後に告げて通話を終了すると、 「光輝」 「りょーかい」 待合室の受付のさらに奥の部屋、スタッフの休憩室。 実質は秋津ただ一人専用の仮眠部屋に、今日は珍しく二人の人影があった。 「んっふっふふーん♪ んっふっふふーん♪」 二つの紙袋を鼻歌交じりにびりびり破く秋津を心底苦々しそうに見つめ、壁に寄りかかったまま腕を組んだ紫苑は一つだけ訊いた。 「お前が外に出ていたのは、悠を見守るためか?」 「さ、どうだろねー」 適当に返事を返しつつ、中から出てきた食パンを何かのお宝であるかのように眺める。 「……。お前は、そんなもののためにアイツらを動かしたのか?」 「んもー。そんなものってヒドいなー。一斤二千円の、神の領域とも崇め奉られる食パンだよ?」 それから秋津は取り出したそれをテーブルの上に置くと、何やら土下座するような体勢を取った。 「ははー、食パンさまー。……。ほら、紫苑くんも一緒に。食パンさまー」 「知るか」 吐き捨てるようにそう言い、精いっぱいの毒を込めて秋津を見下ろす。 しかしそんな事には露ほども気づかない彼女は、もう一つの紙袋から大きめの数個のビンを取りだした。 何かと思って見つめていると、どうやら業務用のジャムらしい。 「んじゃ、いっただっきまーす」 直にスプーンを突っ込んだ彼女によって、恐ろしい勢いで消費されていくビンの中身を見つめていると、 「それにしてもどうしたの紫苑くん? この時間帯に起きてるなんて。引きこもりも真っ青な昼夜逆転生活を送ってたはずなのに」 「……秋津、お前はいちいち俺にケンカを売らなければ口を開けない決まりでもあるのか?」 舌打ちするが、自身の異能の都合上(……)深夜に活動する事が当たり前になっていたので、それ以上の追及はしないでおいた。 「仮眠をとっていたら、いきなり階下の騒音で叩き起こされた俺の身にもなれ」 「騒音? そんなうるさかった? 光輝くんたちが?」 「違う。大方お前が表の仕事を休みにしたせいで、納得できない馬鹿が暴れていたんだろうよ」 あの二人のどちらかが追い払ったんだろうがな、と続けようとした時、相手のペースに乗せられている事に気付いた。 「そんな事よりもだ。いい加減俺の質問に答えろ」 頭痛がしてきて目を閉じ、イラついたように息を吐いた。 「お前が出かけていたのは、アイツを見守るためなのか?」 再び目を開けると、先ほどまでいたはずの相手の姿が見えない。 「……」 扉を開けて彼女の姿を探すと、秋津はコーヒーメーカーから受け皿を取り外し、それと二つのカップを持って元の部屋に戻ってきた。 「紫苑くんもコーヒー飲む? 私が入れるより、悠ちゃんがやってくれた方が何故か美味しく出来るんだよねー。やり方は同じはずなのにどうしてだろ」 「いらん。そんな事より話を反らすな」 紫苑は心の底から「日ごろからの行いの違いだろう」と言いたかったが、再び相手に話題を変えられてしまうのが目に見えていた。 「お前が行っていなかったら俺が向かうつもりだったが、な」 「あ、じゃあどうぞどうぞ。後はヨロシクー」 「……」 無言で睨みつけると、彼女は眼前でアセアセと手を振った。 「ごめんごめん、冗談冗談!」 それから秋津はコーヒーカップを口元に運ぶと、 「白斗くんは草むしりで安全な隣街まで行ってもらってるし、葵ちゃんにはクレア(くーちゃん)が付いてるし、そっちの二人は大丈夫でしょ」 「……」 「何かなー紫苑くん。その「まさかお前そこまで考えていたのか」みたいな顔は」 「……ところで秋津、どうして光輝と悠を買い物に向かわせた?」 「ん? 単に食べたかったからだよー。それ以外の意味なんて、無い無い」 それから協会支部長は、耳だけになった食パンを一気に飲み込んだ。 「さ、あの子たちのお手並み拝見、と行きましょうか」